物語の構造的理解とその構築に関する仮説

 以下の論は、僕の個人的な経験に基づいた仮説です。
 より良い物語を作るための仮説であって、物語をただ無目的に分解しカテゴライズするような性質のものではない。物語をどのように理解したらより良い物語を作ることができるのか?という目的に基づいた仮説です。
 ここでいう物語とは基本的には近代の大衆向け娯楽、特に漫画におけるものを念頭においています。娯楽映画やゲームなどにも適用できると思います。とにかく近代の大衆向け娯楽における物語についての論です。


・物語とはなにか
 より良い物語を作るためにはそもそも物語とは何かを理解しなくてはならない。
 僕の経験によれば、物語とは
  問題解決の記述様式
 である。

 問題解決を時間的な形式で記述したものが物語である。





・物語の基本構造
 物語が問題解決の記述様式であるからには、本質、核として問題が存在する。また、問題解決を時間的な形式で記述したものが物語であるからには、出題が存在しなくてはならない。
 従って、
  出題-解決
 がごくごく基本的な物語の構造ということになる。ただし、物語が時間的な形式で記述されたものであるからには、これだけでは不十分で、さらに間に試行錯誤を挟む必要となる。
 つまり、
  出題-試行錯誤-解決
 が物語の基本構造である。
 これを例えば起承転結にあてはめれば、
  出題(=起)-試行錯誤(=承)-解決(=転・結)
 に相当する。

 また、役割としては試行錯誤は問題の難易度を規定し、解決におけるカタルシスの大きさを左右する。


 多くの物語はマクロ的にもミクロ的にもこの構造をもつことになる。
 マクロ的な物語構造とは、主人公が達成すべき大いなる目的などのレベルにおける物語である。(少年漫画などで、主人公が頂点に上り詰めることが解決にあたり、野望をもったたよりない少年としてはじまることが出題にあたる)
 ミクロ的な物語構造とは、シーンごとのレベルにおける物語構造である。
 娯楽的な物語は基本的にはマクロ的にもミクロ的にもこの構造になっていると考えてまず間違いない。
 イレギュラーとして、
 ・マクロ的な物語構造が存在しない、あるいは稀薄なもの(ミクロ的な物語の連続によって成立している/鬼太郎などを想像すると良い)
 ・解決にあたる部分が存在しないもの
 などがある。しかし、このではあくまで基本をおさえるのが目的なので言及しない。


 物語は再帰的な、フラクタルな(部分と全体とが相似的であること)構造を持っており、この基本をおさえれば多分かなり問題が解決する。
 例えば、物語制作時のエラーチェックとして、
 ・全体的につまらない→問題の設定がつまらない
 ・どうにも物語の進展しないシーンがある→シーンにおいて出題がされていない
  (また、このようなエラーから、物語のシーンは常に起承転結の構造を持つべきであり、またシーンとシーンの結と起は連結されているべきであるということがわかる)
 ・カタルシスが少ない→試行錯誤が甘く問題の難しさが示せていない
 ということが確認できる。






・問題について
 物語の核である問題について。
 問題とは、物語のテーマと同義であり、物語構造においては転、解決部と同義であり、コンセプトと同義である。

 物語がつまらないとき、問題がつまらない、ということが分かりづらければ、テーマがつまらない、コンセプトがつまらないと表現するとわかりやすくなるかもしれない。
 テーマ設定、コンセプト設定という言葉は問題設定と同義であると考えて良い。

 また、物語においては問題はまた主人公と等しい。なぜなら主人公とは物語の根幹である問題を解決する人物であるから。主人公と問題とは不可分である。
 脇道になるが、従って、主人公像が決まらない、いい主人公が作れないといった場合物語の問題設定がマズい。

 問題形成、コンセプト形成において、とかく創作においてはオリジナル性にこだわりがちであるが、コンセプトは常に既存のコンセプトを大きく包含しなければならない。
 なぜなら、コンセプト、つまり意味というものは言語性の要素であり、完全に新規な意味というものはそもそも理解され得ないからである。
 例えば、嬉しいとか悲しいといった共通的に誰もが了解している意味は言語において理解されえるが、あなたが完全に新規に作った意味は共通の理解がないので意味として理解されない。あなたが複雑なことを伝えようと作品を作ったとき、読解力の高い人にしか理解されなかったという経験はないだろうか。それは普通の人は既に理解している意味によって物事を理解するためである。

 僕の経験上、コンセプト形成は既存のコンセプトを8割、新規の意味を2割程度で作ると良い。

 また、コンセプトは一つの統一された意味を持つ必要がある。時間的広がりの少ない、瞬間として提示できるものが良いコンセプトである。
 なぜなら、物語の核が問題=コンセプトである以上あらゆる物事はコンセプトに向かって集約する。その時コンセプトが複合的すぎると物事の流れが集約せず、結果としてカタルシスもぼやけるからだ。
 あるいはまた、コンセプトは意味という単位である以上、多義的であることは望ましくない。

<複雑な事象を複雑なままに記述したい、という欲求は確かにわかるし崇高だと思う。しかしそのように物語を作った場合、ほとんどの人にまともに理解されず、厳しく辛い生き方を余儀なくされることを覚悟しておかなければならないだろう。
 僕においてはわかりやすさの中に意味のわからなさを混ぜ込むことを選択する。>





・少年主人公がなぜ非常に作りづらいのか?
 脇役だったら個性的な人物がいくらでも作れるのに、主人公はなんだかぱっとしないキャラクターになるという経験はないだろうか。

 これは主人公という役割の特殊性と、少年というコンセプトの特殊性に起因する。

・主人公とは何か?
 主人公とは、物語を解決に導く役割を持った人物の事である。仕手。
 娯楽における物語では、特にこれから何事かを為す、問題の解決者である。

 そのような性質上、主人公は、起点から物語を考えてしまった場合、その人物に方向性をつけることができないのは当然である。
 問題の解決者であるから、その性質は問題の設定なしには決定され得ない。

 また、そのような性質からいって、物語におけるマクロな問題と主人公とは同義であると言える。
 「主人公が変わってしまったら別の物語である」という言説はこのような理由によって正しい。

・少年とは何か?
 少年は主人公と性質として大体同じだ。
 少年とは、まだ何者でもない者、半端者であり、これから何者かになる人物である。
 であるから、主人公と同じように、どのような者になるのか?が解決されない限り少年は方向付けをされえないのである。
 少年は実はただ少年としてはキャラクターは成立せず、何者になるのか?何を為すのか?という将来像によって成立しているのである。






・まとめ
 基本的に物語の核が問題である以上、物語は転をはじめに作ることになる。
 転からはじめて、その転をいかす形で帰納的にミクロな問題を配置していく事になる。

 物語は常に、マクロ的にもミクロ的にも問題設定が肝。
 見る価値のある問題を、物語構造的に展開すれば大体多分どうにかなる。





・補論 コンセプトの優位性
 漫画やイラストレーションなどを実際に製作する上で、その制作を要素として分解したとき、ここでは特にイラストレーションを例にするが、コンセプト、基礎技術、演出的技術のような要素に分解できると思う。
 あくまで僕の経験上の話ではあるが、他にいろいろな分解のしかたがあるにせよ、コンセプトはその中でも有意に優位に評価される。
 凡庸で見る所のないコンセプトを元に、形を良く取ることなどに非常に力点を置いたイラストより、コンセプト形成に力を入れて絵自体はさっさと描いたものを比べると、明らかに、コンセプト形成に力を入れたものの方が何倍もウケがいい。
 技術派の人間には屈辱的だが、頑然たる事実としてコンセプトの優位性は存在している。ように僕には思える。

 しかし考えて見れば当たり前だった。
 というのも、世間一般の人々は物事を非常に言語的に処理しているからである。言葉で言い表せないような抽象的だったり絵画的な理解ということをする人間というのは、よっぽど沢山絵を観ているか、あるいは自分も制作している人間ぐらいしかいない。
 創作物を弁当に例えたとして、制作側は弁当箱から制作するが、一般の人、消費する立場の人間は具材にしか興味がない。弁当箱や具材の容れ方は、きれいなほうがいいものの、しかし注意を払ってはいないのだ。それは、至極当たり前のことだ。

 ハイコンテクストなものを理解できる人間だけの市場でやっていけるのであればそれはそれでいいが、そうでない限りは、コンセプトには大いに気をつかわなければならない。理解されものは評価してもらえないからだ。

 あと、経験的に、マクロにしろミクロにしろコンセプトはコンセプトアートとしてかきだすのが望ましい。
 文字では魅力的だったはずが形にしたら大したことないなんてことはざらだから。