twitlog:物語について考える。

 割と用語がアレだけどまぁ俺メモ的な。


 「誰にも言えないネガティブな秘密日記サービス」やべぇ すげぇひびきがいい
 ネガティブ日記は割とガチに書くもんだから読み物としてのおもしろさがそこそこ担保されてるっぽいな。ポジティブ系は、文章として成立しないというかそもそも楽しいことって内省するもんじゃないから娯楽的には成立しねーのかもな。
 ネガティブな日記がおもしろいとはいえそれはポジティブな日記とくらべて、、、程度であってやっぱ基本的には全然おもしろくないなー。でも「本当にあった○○な話!!」的な漫画とかかけそう。。
 いやそんなことしても得しないからしないけど、、とかおもったけどなんか「私のこと好きっていわれたけどセックスしたいだけっぽい」みたいな日記とかからもっと漫画住人のファンタジックな内的世界みたいなの展開すれば女性作家みたいな漫画とかかけんじゃんとかなんとか。

 なんかあぁいうネガティブな日記から現実の人間の顔を想像するからただキモいんであって、漫画のキャラならどうしようもない悩み事ももうすげぇいいかんじになるよなうん。。
 現実のセックスしたいだけでいいよられる女の話はうへぇってかんじだが、漫画のセックスしたいだけでいいよられる女の子の話は涎がとまらない。。
 あーまじいいなぁこれ。志村貴子先生みたいな漫画とかかけそう。。いいなぁ。
 好きとか嫌いとかそういう話って俺結構好きなんだけどゼロから考えるのはちょっと苦手なんだよな。


 つーかあれだな 楽しいことってかなり複合的に成り立ってるから文章化しづらいのもあるんだろうな。嫌なことは大抵独立した出来事だ。だからコンセプトとしてかなり明確で、物語を素人にもうまく構成させてしまうんじゃないか。
 楽しいことにはあまり何が楽しかったのか、どう楽しかったのかを意識させられる瞬間ていうのはないけど、嫌なことは何がどう嫌だったのかかなり明確だ。というか、そうでないなら、嫌なことが具体的にわからない場合不安から精神症になるからまた別の問題になる。
 つーか、物語が問題解決のための能力であるとするなら、嫌なことに物語適性があるのは当然だということになる。嫌なことは問題そのものだし。
 つーかだから、、物語が問題解決の方法であるのにもかかわらず、本質的に問題を解決してないのに解決しちゃうご都合主義コンテンツが嫌いなんじゃないか。。それを認めたらもうおしまいだっていう感覚、それを認める人間になってしまったら頭がめちゃくちゃになっちまうぞ、みたいな感覚は多分、物語が問題解決の方法として成立しなくなってしまう予感からきてんじゃねーかな。


 あと、俺がどうしても下から積み上げる方式で物語を作れなかったのは、おそらく娯楽として作る以上どうしても必要になる恣意性が、問題解決の方法である物語の形式にどうしてもあわないからだ。
 逆に転からさかのぼる形では一瞬で物語を作れたのは、問題解決が所与の問題に対して働く機能であるからだ。あるいは、問題解決の本質が「なぜそうなったのか?」であるからだ。つまり、はじめに結果を与えれば物語が展開できるというのは必然だし当然だ。

 プロの作家さんとかみるとやっぱどうみても、一番はじめに見せ場を考えてるよな。キャラが勝手に動きだす、みたいのは順を追って展開させていく物語においてではなくて、コンセプショナルなシーン、つまりネタが連想的にどんどんでてくるっていうことであって、物語の考え方とは別の軸なんじゃね???
 っつーか、物語とネタ出しっつーのは実は全然違う技術なんじゃねーか??物語の技術はネタとネタの間をつなげてそんで一連のコンテクストに仕立て上げる技術のことなんだよ、、、多分。

 演繹的に見える物語も、その制作においてはおそらくただ演繹的なんじゃなくて、小さな帰納の繰り返しでできてるとおもうんだよな。コンセプトを置いて、なぜそうなるかの説明をしての繰り返しでできてるんじゃないか。
 あるいはガチでいきあたりばったりにコンセプトを配置していくっていうのもあるだろうけどそれは幼児の物語じゃないかと思う。

まぁそんなかんじでうん。
っつーか、「つーか」っていいすぎですね。。