覚悟しろ

 今まで俺に足りないのはコンセプション的な能力だと思っていた。感情やフェティシズムに関するコンセプト形成が甘い、あるいは”そのような演出に対するフェティシズムがないこと”が、俺の作品を無味乾燥な、味気ない、魅力に乏しいものにしているのではないかと思っていた。し、その克服のためにはコンセプトについてのより強い集中が必要だと思っていた。

 しかし、稀にうまくいったケース、俺自身納得がいったし他者が見た場合もおもしろがることができた作品を省みてわかったのは、俺はその作品を作るに当たって”確信をもってしていた”ということだった。
 正しさや妥当性は問題ではなく、ただ”確信をもってする”ことが必要だった!

 ひるがえって確信を持たないのであれば、安易に承認を得るためにわかりやすい、特に思い入れのないテコ入れをしようとしたりいわゆるアンパイだと思われるような方法を取り入れようとするのであれば。平たく言って日和っているのであれば、作品は意味を形成しない。
 あらゆる人間に受け入れられることを目的に意味を形成しようとすると(もちろんそんなことは無理だが)、必然的に意味は形成されない。有効な意味が何らかの指向性を持つものである以上、意味を形成すればその意味を了解出来ない層が、”ある種類の人間”が必然的に存在しまたそれを避けるためには意味をなくすほかない。

 むしろ、意味を形成するために必要なのははただ”確信をもってする”ことである以上に”ある種類の人間”を切り捨てる覚悟に他ならない!

 意味を形成することによって”ある種類の人間”からの反感を買い叩かれることに対する覚悟、それ以上に”自分がある種類の人間を攻撃する”覚悟が必要なんだ。
 意味を形成する時、その意味を承服出来ない”ある種類の人間”に対して、「俺はお前たちを攻撃して”ある種類の快楽”を生産している!」と言い切る覚悟が必要なんだ。

 俺が感情的な演出が全く苦手だったのは、俺が感情性に乏しいということ以上に俺が日和っていた、誰からも嫌われたくなかったからだ。
 俺はいい加減覚悟を決めなくちゃならない。少なくともコンテクストを構成する際には、”ある種類の人間”を完全に排斥するし、反発を受けるということを覚悟しなくちゃいけない。
 覚悟を決めた先にしか創作はありえないから!

 また俺が”ある種類の人間”の敵になろうとするとき、そこには彼らに対するなんの正当性も必要ではない。なぜならば、正当性などというものはお互いが納得するための、平たく言えば嫌われないためのストーリーに他ならないからだ。
 今、俺が一方的に”ある種類の人間”を敵にし攻撃しようとする時、正当性などというものはそもそも意味をなさない。仮に相手に対して正当性が主張できたとしたってそんなものは相手にとっては侵略者の詭弁でしかないからだ。

 だからとにかく、創作を行おうとしたとき、一番重要なのは覚悟を決めることだ。
 ”ある種類の人間”を切り捨てる、排除する、攻撃する、そして攻撃される覚悟を決めることだ。